1825年12月のデカブリストの決起は、ロシア史の転換点となりました。
このとき、ロシアにはフランス革命憲法を模範とした憲法が制定され、この憲法は、のちのロシア史をある程度方向づけたのです。
初期設定では「弾圧」されていたインテリゲンチャを「奨励」した上で政権に参画させる。
ロマノフ朝ロシアの皇帝、ニコライ・ロマノフは史実では血塗られた弾圧の上に権力を築きましたが、このAARではデカブリストとフリーメーソンとの合意の上に権力を築きました。
地主と知識人との同盟が彼の権力の基盤でした。しかしこの同盟はかなり非対称なもので、地主の圧倒的優位のもとに成立している不確かな同盟でした。
知識人たちは自分たちを、「ヴォルガの船曳人夫たち」に喩えて慰めを得ていました。
それはつまり、ロシアの地主勢力という圧倒的な重量を、自分たちが艱難辛苦に耐えて曳いているのだという自己認識です。
ヴォルガの船曳人夫たち。
知識人たちは内心、ひどく苛立っていました。デカブリストの決起から10年経過しましたが、ロシアにはまだ農奴制が敷かれ、国会すら開催されていないのです。
知識人たちはリベラルな国会を求めてこれまで闘ってきましたが、地主層の抵抗がそれを許しませんでした。
そして、この10年間の歳月は知識人たちに政治的な妥協を身につけさせました。
知識人たちは地主層に配慮して、まずは「土地所有による選挙権」の法案を提起することにしたのです。
この法案によって成立する国会は、かなり保守的な議会になるでしょうが、それでもないよりはましであると知識人たちは考えました。
1836年に提出されたこの請願は、はじめ5%の成功率しかなかったため政府に拒否されましたが、知識人と同盟する皇帝のニコライがこの法案を支持することで、20%の成功率のバフを得て、1837年4月に請願は承認されました。
こうして開催された国会(ロシア語で「ドゥーマ」と言いました。)は圧倒的に保守的な議員によって占められました。
選挙が開票され、国会が開催されたのが1837年10月だったため、国会期成同盟につどっていた保守系議員たちは「オクチャーブリスト」を名乗りました。オクチャーブリとはロシア語で10月を意味します。
このオクチャーブリスト党には地主、坊主、軍人、そしてプチブルが集っていました。まさしくこの政党は古いロシアを代表する政党でした。
知識人たちは党外、閣外にいて、政権を操作しようと考えていました。知識人たちはさっそく「農奴制の廃止」法案を提出しようとしましたが、地主層が反発して一時的に税収が減ることを恐れた皇帝によってこの法案は提出されませんでした。
トリコロールのロシア国旗。
このため、知識人はしばらくは何も得るところなく、権力の蚊帳の外に置かれたかのようでした。
「ドゥーマの開催で知識人が得たのはトリコロールのロシア国旗だけだ」という冗談が、当時ロシアの議会では囁かれました。