デカブリストの決起から10年が経過し、ようやくロシアに国会(「ドゥーマ」)が開設されました。
このドゥーマは本質的には地主、坊主、軍人、そしてプチブルのものであり、知識人はこの時点で蚊帳の外に置かれつつありました。
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1838年6月、エジプトとオスマンとの間で外交的危機、所謂「オリエント危機」が勃発します。
ロシアはここでオスマンに肩入れし、エジプトを屈服させることに寄与しますが、危機が終わった後にはそのオスマンに対して圧力を掛け、1841年にガリポリ条約港を、1846年にはキプロス島全域を割譲させることに成功します。
このようにしてロシアは、黒海から東地中海(レパント)へと航路を確保することに成功しました。
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ロシアのこのレパントへの渇望は、不凍港を求めたためとも、エルサレムへの巡礼路の安全を図ったためとも言われています。
ロシアの最初の技術革新は「将校団general staff」に充てられました。
この軍事技術は歩兵の新しい編成形態を解禁してくれるものです。
新しい編成形態(「散兵戦術」)は弾薬の消費が激しいため、現状、独力で弾薬を製造できないロシアには高価なものでしたが、軍事力は威嚇的外交の裏付けとなるため、ロシアの戦略には必須でした。
この戦力投射上の優位を生かして、1841年にはカザクを征服し、ペルシャを脅迫して傀儡化することに成功します。
また1845年にはカウカシアとコーカサス首長国といったコーカサス地方の二つの独立国家を脅迫によって折れさせ、併合します。
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内政面ではどうでしょうか。
技術革新では、ロシアは「将校団」のあとに「中央公文書館central archives」を完了し、統治技術を錬磨し、官僚機構と財政状態を安定させます。
法改正では「専門警察dedicated police force」と「秘密警察seacret police」を創設し、国内の治安の安定を図ります。
生産では、木造建設を中心とした建設局を増加させ、その原材料である木材を生産する製材所、織布を生産する牧畜といった分野を育てます。
とくにロシアは製材所の建設に適した木材ボーナスのあるステートが多いため、木材を中心とした産業革命戦略をとることが期待されます。
それはつまり、原材料としての木材、中間資材としての建設局や紙や家具、そして最終的な目標である政府施設、高級家具などの建設です。
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1840年代末までにロシアはあたらしい三つの選挙を経験しました。
与党であるオクチャーブリストは依然強力で、野党のカデット(「立憲主義者=民主主義者」)は数%、数議席しかドゥーマに席を得られませんでした。
地主、坊主、軍人、プチブルからなるオクチャーブリストの保守系大同団結勢力は、しかし工業化の芽生えと法改正によって動揺しつつあります。
オクチャーブリストの主柱である地主と坊主はこの政党を支え続けていますが、軍人は党外に出、プチブルもこれに続きつつあります。
知識人たちはいまは資本家だけからなる野党のカデットに加盟したい気持ちをもっていますが、政権に参画しているためまだこの計画は実現していません。