「美しいギリシャ! 消え去った武勇の悲しき面影 亡んでもなお、不滅なるもの 敗れてもなお、偉大なるものよ!」バイロン
はい、というわけで皆さんこんにちは。
今日も今日とてVICTORIA3です。今回はギリシャでメガリイデアを実現していきたいと思います。
ご笑覧ください。
VICTORIA3 v1.8.6
GREECE
MODなし
IRONMAN
異教徒の支配下にあったギリシャ人たちがフランス革命の影響を受けて民族的自覚を覚醒させ、独立戦争を始めたのが1820年代。
この独立戦争は、異教徒に対するキリスト教徒のたたかいということで、イギリス、フランス、ロシア等の列強に支持されて、勝利に終わります。
列強は、ローマ皇帝の血を引く南ドイツ人の公子をギリシャ王に擁立し、統治させます。このドイツ人がオットー。ギリシャ読みでオトン1世と言います。
当時ギリシャはペロポネソス半島の3プロビ国家でしたが、オトン1世はすべての未回収のギリシャ領土を回復することを願うロマンチストで、自分の野望を「メガリ・イデア(偉大な理想)」と表現しました。
しかし夢見がちなハタチの青年の願いとは裏腹に、現実のギリシャ王国は異教徒の海に浮かぶ陸の孤島に過ぎないのでした。
とりあえず国内を安定させるために食糧増産と教育機会の布告を全土に貼って、列強と関係改善します。
しかし列強(とくにロシア)の勢力圏加入打診がこないよう、依存度を管理しながら、時計の針をすすめます。
ギリシャは職業軍人制定済みです。陸軍は6大隊しかありませんが、ヒストリカル将軍が初期に陸軍3人、海軍1人と充実しています。誰の事績も知らんけどな!
ちなみに海軍は1隻だけですが、こちらはあるだけましといったところでしょうか。
この戦力ではとても異教徒と正面からたたかっても勝てないので、初期の停戦期間が生きている間はとりあえず様子見します。そうこうしているうちにロシアなどから独立保証がとんできます。これで独立は安泰。しかしオトン1世の願いはもっと高いところにあるのだ。
法律は国民至上+国教以外は急いで変更したいところがありません。一応、任命制官僚と介入主義経済、小作農、資産本位課税、奴隷禁止などが揃っています。水準はふつうのヨーロッパ諸国ですね。
寡頭制なので政府は正統性が最大の連立を組む形で、地主と坊主とプチブルで与党をつくりました。このメンツでは大胆な法改正はできません。
とりあえず地方警察を専門警察に変更する審議を始めてお茶を濁します。
財政は貧しい州が3つしかないので貧弱です。でも建設局が一つもないので財政黒字です。建設局を立てたとたんに赤字になります。
産業は農業と漁業が中心で、工場がほとんどありません。資源も痒いところに手が届かないくらいの埋蔵量。まあ拡張するつもりなのでそれはいいんですが。
ちなみに紙がないために行政府や大学をつくると赤字の原因になります。
言い忘れましたが、ギリシャは最初から国境の異教徒領にクレームをもっています。テッサリア州です。
これが原因で「Rightful Borders」が発生し、アンチ・オスマン・ロビーが結成されました。地主と坊主が参加しました。機嫌を取るためにオスマンにライバル指定して、禁輸も実行しておきます。
外交関心の貼り方についてですが、本土のあるバルカン以外には最初は1つしか貼れません。ギリシャ人居住区の多いアナトリアに貼っておきます。
海軍を増やしたり、植民の技術を解禁したら貼れる関心が増えるので、2番目はアラビアに貼っておきます。アナトリアとアラビアに関心を貼っていると、オスマン・エジプト戦争、通称オリエント危機を監視することができるからです。
警察改革(専門警察)をしたあとは、地主の陳情にのっかって内務省(国民衛兵)を設立します。
そうこうしている間に技術「大学制度」が解禁されました(1840年7月。綿繰り機→大学制度という順番で研究しました)。ギリシャは法律はヨーロッパ諸国並みなんですが、技術がオリエント諸国並みで、ティア1も終えておりません。植民も大学制度も終えていなかったのです。
まあなんにせよこれで大学が建てられるようになってので、赤字覚悟で大学*2、建設局*1、そして紙*1をキューにいれます。大学二つはギリシャには少々重いのですが、ジャーナル達成のために必要なので頑張って無理をします。
技術はそのあと、社会技術のティア1をすべてとってからティア2はナショナリズムからはいります。理由はWikipediaの各国戦略のギリシャのページを見てくれ。
1841年8月に戦列歩兵が伝播で解禁されました。ここで歩兵を戦列歩兵にアップグレードし、ゲリラあがりの独立戦争経験者(非正規歩兵の別名)を退役させます。
いよいよ異教徒たちとの戦争の足音が近づいてきました。
既にオスマンとエジプトとの間にある初期の停戦期間は切れており、いつオリエント危機が始まってもおかしくありません。オリエント危機がはじまったら戦争に乗じてオスマンを殴ってテッサリア州を取り戻すつもりです。
ところがそのオリエント危機がなかなか始まりません。
そうこうしている間に「A man in Demand」というイベントが発生し、ロシアが初期にもっていた恩義を解消する代わりにヒストリカル将軍をくれろと言ってきました。当然了承します。
これでギリシャはロシアをあたらしく恩義でも戦争に呼べるようになったので、対オスマン戦争を始めます。
とりあえずテッサリア州の返還と属国トリポリの移譲、戦争賠償金を条件に外交プレイを開始します。
プレイを開始してみると、オーストリアを恩義で呼べることが判明しました。
ロシアを呼ぶと彼のライバルであるイギリスが介入してくる恐れがあるので、ここはロシアではなくオーストリアを呼ぶことにして、戦争を始めます。
そして開戦。オーストリアは将校団General Staffを解禁したらしく、オスマンを軍質で圧倒し、なんなくこれを降伏に追い込みます。
1843年から1844年にかけての戦争を経て、オスマンは降伏してテッサリアとトリポリと賠償金をギリシャに与えることで合意しました。
これで停戦が切れた頃にナショナリズムを解禁して、「The Greek State」のジャーナルで新しく得た請求権でもう一度オスマンを殴ることができます。
これがギリシャの序盤基本戦略です。最初のオスマン戦では、列強を呼んで戦争を代行してもらうのですが、列強間のライバル関係に注意すること、それからギリシャ軍の動員はしばらく待って、アテネの戦線に列強の軍隊がやってくるのを待つことが重要なポイントになります。
で、しばらくは上記の通り待ちの局面かなと思ってたんですが、1848年になってムハンマド・アリー総督のエジプトがトリポリ侵略を開始しました。
トリポリはギリシャの属国になっているので、ギリシャ・エジプト戦争のはじまりです。
ほんとうはナショナリズムを発見して請求権を得てからにしたかったのですが、これをいい機会にして、ギリシャは賠償金とクレタ島(ギリシャ人居住地のひとつであるエジプト領)を戦争目標にしてアリー総督の挑戦を受けて立ちます。
まあ恐れることはありません。オーストリアとロシアを呼びますから。オーストリアとロシアはギリシャの独立保証をしていて、「Call Ally」で呼べます。彼らはプロイセンとの戦争中で呼べるかどうか不安だったのですが(だからこのタイミングでエジプトはギリシャに喧嘩を売ったのでしょう。)、ちゃんと来てくれました。エジプト側にはフランスが立ちましたが、列強の数が2対1で勝てるわけないだろ! ということでギリシャは1849年にクレタ島と賠償金を得て勝利しました。
なお、このムハンマド・アリー総督の暴挙に失望したかどうかは知りませんが、フランスは戦争終結後、一か月と置かずにギリシャへの態度を変えて独立保証を飛ばしてきました。
さてこれでギリシャの州は初期3州に加えてテッサリアとクレタで5州になりました。ナショナリズムが解禁されるとイオニア諸島が併合できるので6州になるでしょう。
1851年には恩義を支払えばロシアと同盟できることを知り、希露同盟を締結します。1851年2月にはオーストリア・ハンガリー二重帝国が成立します。
そして1852年3月、ナショナリズムがついに解禁されます。
ナショナリズムを解禁することでギリシャは固有ディシションと固有ジャーナルの前提条件を満たします。
固有ディシションは先に述べたイオニア諸島の併合であり、固有ジャーナルはこれも先に述べた「The Greek State」です。
さらにナショナリズムは同じティアのスポーツ組織という技術の前提条件になっており、スポーツ組織を解禁すればオリンピック復興でギリシャには威信100が永久に付与されるため、こちらも早期に解禁することが望ましいです。
さて、「The Greek State」のジャーナルでギリシャにはマケドニア、西トレース、東エーゲ諸島(、そしてまだ領有していなければクレタ島も)の請求権を得ました。
さっそくこの請求権を行使してオスマンを殴ります。1852年から1853年にかけての戦役でこれらの請求権をすべて回収することができました。
請求権を回収すると「The Megali Idea」のイベントが発生して、選択肢は三択あるのですが、今回は悪名と引き換えに東トレースとイオニアの請求権を貰える選択肢を選びます。
1853年時点で、かつて貧弱だったギリシャはこんなにマッシヴになりました。これにはオトン1世も莞爾とします。
1852年のナショナリズム解禁によって、オスマンをぶん殴り、1853年には「Megali Idea」イベントを成立させました。
バルカン半島で膨張するギリシャという圧力によって、国際的な化学反応が起こり、なぜか翌1854年にはオスマン・エジプト戦争、所謂オリエント危機が今頃起こります。
このオリエント危機はエジプトの勝利に終わり、エジプトはオスマンから独立を達成します。
すると1855年、将校団General Staffを解禁したギリシャがエジプトに対して外交プレイを開始。
主要目標はアレキサンドリア条約港として、他にも副次的目標を積み増し、同盟国を呼び、エジプトを動揺させ、彼らをプレイから降りさせることに成功します。ギリシャはこうしてアレクサンドリアを入手したのでした。
ギリシャの急激な膨張は、別の問題も引き起こします。
被差別民族となったトルコ人たちが、ギリシャの支配に反抗して独立運動を起こしたのです。
これにはギリシャ政府は飴と鞭で対応します。飴とは、国民至上の法律を改正する審議をはじめることで、これはのち民族隔離の法律に結実しました。鞭とは、権力をつかって運動を弾圧することで、この弾圧が功を奏して、トルコ人たちの独立運動は独立戦争にまで発展することなく、民族隔離の制定とともに雲散霧消することになったのでした。
1858年にはギリシャはスポーツ組織Organization Sportsを解禁し、オリンピックを開催して恒久威信バフ+100を得ます。これによってギリシャは1860年代から列強の地位に伍することになりました。
こうした国際的威信を背景にして、ギリシャはますます膨張政策を追求します。
1859年にはもう何度目かになる対オスマン戦争をおこなって、東トレース、イオニア、スコピア、そしてヴィチュニアを主権の領域に組み込みました。
これでエーゲ海はもうギリシャのバスタブです。ギリシャはこの頃、列強になるのですが、それに相応しい国力を備え始めたとみるべきでしょうか。
これによってバルカン半島のオスマン領土はざわつきます。
1863年にセルビアが独立を企て、ボスニア民族も国家をもとうと蜂起を開始します。セルビアの独立戦争はロシアの支援もあって成功しましたが、ボスニアの反乱は当のセルビアに鎮圧されました。ボスニアはムスリム主体だったので、正教徒によるセルビアとの間には民族性の違いというやつで仲違いをしたのでしょう。
しかしこの独立紛争でロシアとオスマンとの間にあたらしい停戦期間が設けられてしまい、ギリシャが待っていた停戦期限が延長されてしまいました。
仕方なくギリシャは1865年にエジプトを叩き、この頃すでにムハンマド・アリー総督は死去していてその息子が独立したエジプトのスルタンの地位を継承していたのですが、そのエジプトをギリシャが叩いて、シリアに独立国家をつくり、賠償金を得るということもしました。
さらに1868年にはロシアとオスマンの停戦が切れたのを見計らってギリシャがオスマンをもう一度叩き、キプロスとトラブゾンを得ます。
これでギリシャは主要なギリシャ人居住地域を す べ て 回収することに成功しました。オスマンの凋落はもう止まりません。1870年代にはブルガリア人も反乱を起こし、これをギリシャが支援してオスマンから独立させます。
だいたいレパント(東地中海)における好みの地図が達成できたので、晩年のオトン1世はギリシャを駆って、アフリカ遠征に注力させます。
そろそろゴムと石油の時代なのでトリポリ以外にも植民地を確保しておかなければならないという事情です。
ということでギリシャはオスマンから接収した海軍をつかって、1870年代から1880年代にかけてニジェール地方やマダガスカル島に遠征します。
1873年にダホメ王国を滅ぼしたギリシャ人たちは、1876年にはボルグ王国とオヨ王国とアシャンティ王国の連合軍を撃破します(彼らはオランダの支援を受けていましたが、ギリシャはロシア帝国を呼び出して苦戦の末、これを粉砕しました)。ギリシャの統治下に置かれたアフリカはニジェール地方ですが、フォン人やヨルバ人といった諸部族の反乱にギリシャは以後悩まされることになります。
独立運動を鎮静化させるために、ギリシャは権力をつかってできるあらゆることを試みました。運動の弾圧はもちろんのこと、布告(インフラや食糧増産や暴動鎮圧の布告)を貼りまくったのです。このため、さすがの黒人たちも独立運動を独立戦争に発展させることはできず、運動は徐々に沈静化していきました。
そして1882年11月、ギリシャ王にしてメガリ・イデア(偉大なる理想)の実現者、オトン1世は崩御します。
ときはギリシャ王国によるマダガスカル島遠征のさなかでした。
(続くか完結か検討中です)