このページではVIC3の時代(1836-1936)と、その前後の時代に関する歴史背景を紹介する。
都市としてのルクセンブルクはローマ帝国時代からの交通の要衝ルツェブルクが起源である。
長らくネーデルラントの一部としてハプスブルク家が支配していたが、フランス革命戦争によりフランスに占領併合され、ナポレオン戦争後にオランダとの同君連合ルクセンブルク大公国として成立し開始時の状況に至る。
史実ではオランダとの同君連合があるためにドイツ統一には参加しなかったが、その後1890年にオランダで女性君主が相続したことから、サリカ法で女性君主を認めていないルクセンブルクは同君連合を解消。
その後はナッサウ家が現在に至るまで大公として統治している。
カロリング朝の分割相続により生まれた西フランク王国が起源であり、フランスという名前もこのフランク王国から来ている。
カロリング家の断絶後はカペー家が世襲するようになり、以来西欧の強国として存在感を示す。
しかし社会の混乱と戦争による財政の悪化によりフランス革命が勃発し絶対王政に終止符が打たれ、革命政府の後にナポレオンによる帝政となる。
欧州全体に大規模な戦争を引き起こすも最終的に帝政は崩壊し、ウィーン体制が敷かれてブルボン王家が復位。
そのブルボン王家も不人気で1830年の革命により退位し、ブルジョワの支持を受けた傍流オルレアン家出身のルイ・フィリップが新たに王となったところでVIC3のキャンペーンの時代に入る。
その後は1848年の革命で共和制になり、間にルイ・ナポレオンの帝政を経てまた共和制となり、列強としてアジアやアフリカに植民地を広げつつ第一次世界大戦に参戦することになる。
1066年にフランスのノルマンディー公ギヨーム2世が『征服王』ウィリアム1世として即位し、現在のイギリス王室の歴史が始まった。
フランスやスペインが覇権を争う中で立ち遅れていた国であったが、エリザベス1世の時代に世界帝国への道が開かれ、東インド会社も設立。
その後はスコットランドとの同君連合が結ばれ、アイルランドを併合し、合同法により連合王国が成立したことが今のイギリスの原型となる。
その後はアメリカ、インドなど世界各国の植民地でフランスやオランダを打ち破り覇権を確立。
同時にその植民地貿易によって産業革命がはじまり世界に先駆けて工業化を進め経済の覇権も掌握、アメリカには独立されたが、ナポレオン戦争に勝利して超大国として君臨しているのが開始時の状況。
史実ではこの後1839年にアヘン戦争、1853年にクリミア戦争、1857年にインド大反乱、1902年に日英同盟締結、1914年に第一次世界大戦と進んでいく。
ベネルクス地域(現在のオランダ・ベルギー・ルクセンブルクを合わせた地域)は古くより毛織物産業が発展しており、都市の商工業者が大きな力を持つ場所であり様々な国家の係争地であった。
その後スペインの統治下となるも、重税に耐え兼ね現在のオランダにあたる北部7州が分離独立、1581年にスペイン王の統治権を否定する宣言が成された。
そしてドイツの貴族ナッサウ家が総督として治めるネーデルラント連邦共和国が成立、これが現在のオランダの原型である。
17世紀にはアジアやアメリカ大陸へ一気に進出し、アジアからアメリカまで植民地を広げて発展するも、イギリスとの海上覇権をめぐる争いに敗れて衰退。
ナポレオン戦争ではフランスに併合されるも、戦後のウィーン会議でナッサウ家を王とする王国として復活し、全ベネルクスを領有するネーデルラント連合王国が誕生する。
しかし南部のカトリック地域が独立戦争を起こし、ベルギーとして独立。これによりゲーム開始時点のオランダに至る。
フランス革命政府がヴェネツィアよりイオニア諸島を獲得したが、ナポレオン戦争後のウィーン会議でイギリス傘下の保護国として独立。
1830年のギリシャ独立以降、ギリシャへの統合を望む声があった。
ギリシャで1862年のクーデターにより親英政府が成立したことを受けて、1864年にイギリスからギリシャに引き渡された。
超大国にのし上がるフロンティア開拓の最盛期。
かつては「13植民地」という名称でイギリスの植民地だったが、イギリスからの高すぎる関税などにより急進化、1775年に独立戦争が始まり翌年に独立宣言する。
1785年に北西部インディアン戦争、1802年フランス領ルイジアナ買収、1819年フロリダ買収と領土を拡大。
1830年のインディアン移住法によりインディアン強制移住が開始される。(インディアンのジャーナルの元ネタ)
史実ではこの後1845年にテキサス併合、1846年にオレゴン条約・米墨戦争で現代の領土(本土48州)のほとんどを確立した。
1861年に奴隷制廃止に異を唱えた南部州が独立し南北戦争が勃発。翌年に奴隷解放宣言を発表し、1865年に合衆国勝利により終結する。
1867年にアラスカ購入、1898年ハワイ併合・米西戦争、1917年に第一次世界大戦参戦と進む。
ヒンドゥー教から分派したシク教は、ムガル帝国のイスラム強制への抵抗から武装化。北西インドにシク教徒の小国が乱立するに至った、
1790年、わずか10歳で小国の一つの王位を得たランジート・シング(1780~1839)は、他の小国を併呑すると共に、外敵であるアフガン系の勢力を駆逐。
1801年、シク王国の建設を宣言。欧州の技術を積極的に導入し、パンジャーブを超えて北西インドの大部分を手にするに至った。
そんなシク王国の前に立ちふさがったのが、天下の大英帝国。ランジート・シングは和戦両用の構えで挑んだが、イギリスの軍事力の前に徐々に風下に追いやられていった。
ゲーム開始時の1836年は、ランジート・シングの治世の晩年である。
ランジート・シングの死後のシク王国は弱体化の一途を辿り、イギリスにつけ込まれ第一次シク戦争(1846年)で敗れると不平等条約を結ばされる。
もちろん不平等条約への不満が爆発し、第二次シク戦争(1848年)を仕掛けたが惨敗。これにより、イギリスはインド全土を掌握するに至った。
元々ケープ植民地に住んでいたオランダ系移民のボーア人だったが、英蘭戦争の結果同地がイギリス領になって以降の統治の反発から、北東に移住してオレンジ自由国(ゲームではオラニエ)・トランスヴァール共和国・ナタール共和国(ゲームでは登場しない)を建国。
史実ではこの後、東のナタールは早々にイギリスに併合される。残るオレンジとトランスヴァールも金鉱脈の発見によりそれを狙うイギリスに再度侵略され、二度のボーア戦争の後に1902年にオレンジともども併合される。
1910年には英連邦内で南アフリカ連邦として独立。ボーア人はイギリス人と黒人・カラードの板挟みの中で大きく右傾化し、第二次世界大戦後20世紀末期まで続くアパルトヘイト運動をはじめとした極右派勢力の基盤へとなっていく。
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