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#author("2023-03-26T03:55:49+00:00;2023-03-21T06:31:15+00:00","","")
[[AAR/アメリカのヒポクラシー]]

*イリノイの大男 [#g82671ab]

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アメリカはイリノイ州に一人の屈強な大男が独立自営農民を営んでいました。
独立自営農民というのはアメリカの民主主義の背骨です。アメリカには封建時代がありません。土地は領主ではなく農民のものでした。
だから、アメリカでは自治や兵役は、この独立自営農民によって担われていたのです。これがアメリカの民主主義を担保していました。

「おうい、エイブ。いい仕事があるんだ。」
エイブと呼ばれた大男が没頭していた畑仕事から顔をあげると、一筋の汗が零れ落ちました。
持ち込まれた仕事は、このイリノイの寒村でつくった商品作物を平底舟に乗せてミシシッピ川を下り、南部の都市で売り捌くというものでした。
畑仕事は農閑期にはいる前でしたから、エイブは持ち込まれた仕事に参加することにしました。

エイブはそれまで南部を見たことがありませんでした。船から見る景色は、一面の綿花畑でした。
エイブは白い綿花の海を見てなにを思ったのでしょうか。エイブは黒い奴隷労務者を見てなにを感じたのでしょうか。

南部の都市ニューオーリンズでエイブは荷下ろしをし、商品を売り捌き、自由時間は市内を散策しました。
都会はひとでごったがえしていました。なかでも特にひとが溢れていたのが、市場でした。
エイブは何の気なしにひとのいる方へと向かっていたら、ある市場にはいっていました。そこではモノではなくヒトが売られていました。奴隷市場です。

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エイブはショックを受けました。
まだ年端も行かない可憐な少女が、満足な上着も着せられずにセリに掛けられていたのです。
奴隷商人の口上のあと、南部農園主たちが口々に少女に値をつけていきました。
値はどんどんと釣り上がっていきましたが、エイブはいたたまれなくなってその場を立ち去りました。

「人間が人間を奴隷にするなんて、こんなことがあってもいいのだろうか?」
エイブはその晩、ほとんど眠ることができませんでした。

*ホイッグ党のホープとして [#d82761d0]

それから数年後、エイブは政治家になっていました。
彼は満足な教育を受けていませんでしたが、独学で文字を覚え、本を読み、資格を取って弁護士になり、政治家の道を歩んだのです。
エイブの信念は「Abolishionist」(廃止論者)でした。彼は奴隷制廃止を自らの政治的イシューとしたのです。彼の本名はアブラハム・リンカーンといいます。

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イリノイ州選出の下院議員としてキャリアをスタートしたエイブは、1837年に不慮の死を遂げたヘンリー・クレイの後を継いでホイッグ党の指導者となりました。
ホイッグ党はその頃、知識人と聖職者たちの、いわば奴隷制廃止論者たちの同盟のようになっていました。
大統領のジョン・カルフーン、彼は奴隷所有者で南部農園主でしたが、このカルフーン大統領は秘密警察をつくってホイッグ党を弾圧しました。
エイブはそれでも屈せずに議会で論陣を張り、「リンカーン条項」と呼ばれる憲法修正条項を提案します。
それによれば、アメリカが西部開拓を進める際は、奴隷州をこれ以上増やさないようにするというものでした。

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 Lincoln Proviso

リンカーン条項は大統領カルフーンによって否定されました。
しかしエイブはこれで諦めたわけではありません。
「この国を変えるには、大統領にならなくっちゃあ、ダメだ。」
このように考えて、1840年の大統領選挙に出馬することに決めたのです。

*不屈の大統領候補 [#p47bf89c]

1840年の大統領選挙は民主党のカルフーンとホイッグ党のリンカーンの一騎打ちになりました。
民主党には地主、農民、坊主(聖職者たちは既に奴隷制廃止論者から奴隷制擁護論者に転向していました。)が参加していました。
対するホイッグ党には知識人、資本家、そして軍隊が参加していました。軍隊の指導者はマシュー・ペリー提督で、改革論者だったためにホイッグ党に参加したのでした。

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勢いはややホイッグ党の方が優ってましたが、選挙地盤の固さでは民主党が圧倒的に有利でした。
1840年12月7日、大統領選の投票結果が開票され、エイブは30%前後の得票率しか得られずに敗れました。南部の奴隷制擁護論者、ジョン・カルフーン大統領の再選を阻むことはできなかったのです。
エイブは「まだ奴隷制が悪であるという認識がアメリカの市民のcommon sence(常識)とはなっていないのだ。これからは野党として奴隷制廃止の世論をつくっていく必要がある」と考えました。

エイブはこのように考え、穏健な奴隷制廃止の道を選択しました。
したがって過激な廃止論者たち、たとえば賃労働者による「労働騎士団」などの閣外からの奴隷制廃止運動movementにはエイブは参加しませんでした。
このことは労働騎士団から「インテリたちはおしゃべりに夢中で実際に行動することを知らない」と揶揄されることにつながるのですが、エイブにはエイブの考えがあったのです。

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エイブはもちろん、奴隷制を憎んでいました。エイブの奴隷制反対の気持ちは、労働騎士団のそれにけっして劣らないものでありました。
しかし奴隷制を即時廃止してしまえば、アメリカ合衆国に対して南部農園主が反乱を起こすことは不可避な情勢でした。
これは内戦への道であり、内戦civil warともなれば、多くの、ほんとうに多くのアメリカ人の血が流れることでしょう。エイブにとって、それは避けなければならないことでした。

だから、エイブにとって奴隷制廃止の道程は次のようなものでなければいけませんでした。
まずホイッグ党から大統領を輩出して奴隷制廃止論者が与党となる。
つぎに警察機構の改正(アメリカのいまの地方警察法は地主の政治的影響力を強化していました。)や工業化によって南部農園主の政治的影響力を徐々に削いでいく。
そして最後に「奴隷制の廃止」slavery bannedの法案を通過させ、奴隷を解放する。

エイブは労働騎士団の過激な路線とあらそいながら、こうして地道な奴隷制廃止の道を選択しましたが、それを嘲笑うかのように、南部農園主を母体とする民主党勢力は奴隷制を拡大する政策をつぎつぎととっていきました。
ジョン・カルフーン大統領は憲法の「リンカーン条項」を斥けた1837年の暮れに、奴隷州拡大をはかるためにカリブ海のハイチ共和国を侵略しました。
ハイチは黒人の国で、カルフーン大統領はここを併合することで黒人奴隷を南部諸州に供給しようとしたのでした。エイブは当然反対しました。エイブはアメリカにとってこれは不正義の戦争であると喝破し、敢然と、反戦の立場にたちました。
しかしエイブの言論は修正条項のときと同じようにここでも無視され、ハイチは1837年12月にアメリカに併合されます。
カルフーン大統領はそれに飽き足らず、つぎはコロンビアのパナマ港を占領するために軍事行動を起こしました。エイブはこのときも反対しますが、まったく無視されます。パナマ港は1839年にアメリカによって占領されます。
1843年から1844年にかけてカルフーン大統領は南部の冒険家たちの奴隷州拡大運動を陰に陽に支持することになります。冒険家たちはヴェネズエラとニカラグアを征服してここを奴隷州にしたり、合衆国の傀儡政権にしようと目論みました。その結果、ヴェネズエラとニカラグアは1844年までにアメリカ合衆国の傀儡国家となりました。
カルフーン大統領のこのカリブ海での軍事行動の動機は、大きく二つに分けられます。ハイチやニカラグアの征服や傀儡化は奴隷州の拡大を目指した政策でした。パナマやヴェネズエラの征服や傀儡化は、地政学的要衝を得るためや原料確保の目的がありました。
このように、カルフーンはアメリカの国益に則って帝国主義的政策を推進したわけですが、これに反対するエイブの立場は、普遍的な、人道と正義の立場でした。しかし世界はこのとき帝国主義者の論理で動いており、エイブの立場はまったく省みられることがなかったのです。

ですが、エイブの反対意見の表出は無駄ではありませんでした。1844年の大統領選で、エイブは再びホイッグ党の大統領候補としてカルフーンの対抗馬になります。
エイブは奴隷制反対と戦争反対を通じて人道と正義に関心をもつ多くのひとびとを惹きつけていました。知識人、資本家、そして軍隊は前回の大統領選挙のときに続いてホイッグ党に参加しました。逆に民主党は、地主と坊主の党でしたが、農民たちはカルフーンの帝国主義政策によって利益を得るのは地主と坊主であり、自分たちは血を流す立場でしかないと考え、民主党から離脱しました。農民の指導者は急進派radicalで、ホイッグ党の参加を希望しましたが、カルフーン大統領の工作にあってそれは選挙中には果たされませんでした。しかし農民の離脱は、民主党にとって痛手となりました。

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こうして1844年の選挙は大接戦となりました。ギャロップ社の世論調査によれば、アメリカ合衆国の有権者の560万人が民主党に、544万人がホイッグ党に投票する予定であるとのことでした。
差は僅か1%未満で、これは選挙期間中になにか政治的イベントがあって潮流momentumが数ポイントでも変われば、結果はひっくりかえるといったものでした。
エイブは精力的にアメリカを周遊して演説を行いました。エイブは有り得た政治的可能性に全身全霊をかけ、奴隷制廃止の第一歩をアメリカが踏み出すように必死の努力をしていました。
そして1844年11月、ついにある政治的イベントが起こったのです。

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それはエイブにとってつらいイベントでした。ジョン・カルフーン大統領が奴隷制廃止論者によって暗殺されたというのです。犯人は労働騎士団のメンバーでした。
「彼らはなんてことをしてくれたんだ! なんてことをしてくれたんだ!」
エイブは激高して取り乱し、机を叩いて悔しがったと伝わっています。カルフーン大統領は逝去し、同情票が民主党に流れることになりました。投票日まではあと一か月もありませんでした。ホイッグ党の勝利の芽はなくなってしまったのです。
エイブは過激な奴隷制廃止論者の政治的行動によって、アメリカから奴隷制廃止の大統領を輩出する機会が失われてしまったことを深く嘆きました。
もちろん、労働騎士団にも言い分はあります。彼ら賃労働者はまだ周縁勢力で、政治参加ができません。賃労働者の勢力が育つまでのんびり待つとしたら、その間に奴隷たちはどれだけの苦しみを受けなければならないのでしょう?
しかしそんなことはエイブにとって理由にはなりませんでした。エイブはカルフーン大統領に対する弔辞を読みます。エイブはカルフーンを讃えなければなりませんでした。言論には言論で対抗しなければならないのが民主主義です。
民主主義的方法によって変革を図る以上、エイブの立場に誤りはありません。しかし民主主義から排除されている奴隷たちの苦しみを代表しているのは、エイブだったか、労働騎士団だったか、それは誰にも分りません。

1844年の大統領選は民主党の勝利に終わりました。

*さよなら、エイブ [#cef0cd04]

カルフーン大統領の逝去後、一時的に大統領を代行したのは南部農園主出身の提督エリー・アウグストゥス・フレデリック・ラヴァレッテという政治家でした。彼は副大統領だったから、大統領代行となったのです。
そのあと急ピッチでカルフーン以後の民主党大統領候補が選出されました。1844年の大統領選で当選したのはゼブロン・ウッドワードZebulon Woodwardというユダヤ人でした。彼は南部農園主で、たいへんな浪費家で、快楽主義者で、腐敗していました。

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こういう旧体制の悪弊を煮詰めたような感じの男がいまや大統領としてアメリカに君臨していることに、エイブは憤りを覚えました。
カルフーン大統領は奴隷制擁護論者でしたが、少なくとも教養があり、自分のイデオロギーによって奴隷制を擁護していました。しかしウッドワード大統領はいまや自分の快楽と浪費のために奴隷制を擁護しているのです。
ウッドワード大統領は「奴隷制は私たちの富と幸福の土台である」とあからさまに言ってのけました。そして奴隷貿易を再開することを提案し、この提案は1847年11月に「奴隷貿易法」slavery tardeとして実際に可決されました。
エイブは悪夢を見ているようで、くらくらしていました。
ウッドワード大統領は奴隷貿易法を可決させると、黒人奴隷を「もっともっと」more and more、南部諸州に供給するためにアフリカに軍事遠征することを決断しました。ソコト遠征です。

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ソコト遠征に従軍して「アフリカの英雄」の異名をとったのは、ハイチ、パナマ、ニカラグア、ヴェネズエラで名声を得たザカリー・テイラー将軍でした。テイラー将軍もまた南部農園主出身でした。
1847年から1848年8月にかけてのソコト戦争で、このカリフの王国は崩壊し、ウッドワードのアメリカ合衆国は黒人奴隷の一大供給地を獲得しました。
そしてウッドワード大統領は、このアフリカ遠征を、「文明化の使命」によって正当化したのです。

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エイブはこのときも敢然と戦争反対、奴隷制反対の意見を表出しました。
しかし1848年の大統領選では、野党はホイッグ党と進歩党に分裂し、民主党は49.2%の得票で大統領選に勝利してしまいました。
ホイッグ党の知識人と資本家は進歩党を裏切り者と批判し、進歩党の農民と軍隊はホイッグ党を日和見主義者と難詰しました。
野党は分裂し、ウッドワードの民主党が漁夫の利を得た格好になったのです。
ホイッグ党(得票率23%)は進歩党(得票率27%)にも及びませんでした。また、ホイッグ党の大統領候補のあらそいでも、知識人のエイブ(政治的影響力17%)は資本家の指導者(政治的影響力18%)に及ばず、エイブは大統領候補にすらなれませんでした。
エイブは自分の限界を感じました。
エイブは自分のすすんだ道を正しい道だったと確信したかったのですが、どうしても迷いを吹っ切ることができませんでした。
労働騎士団のテロ、進歩党の分裂、資本家との大統領候補争いの敗北。奴隷制廃止への道をエイブはどのようにすすんだらよかったのでしょう。そもそも南部の綿花畑の原料供給経済に依存している合衆国で、奴隷制廃止というのは可能だったのでしょうか。
エイブは失意のなか、引退を決断しました。1850年のことでした。

([[続く>AAR/アメリカのヒポクラシー/2]])
(終わり)

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