#author("2024-11-26T17:07:20+09:00","","") #author("2024-11-26T18:37:36+09:00","","") [[AAR/女はつらいよ]] #ref(ss02.jpg,left,nolink) #br *あたしはイサベル。 [#u3864eef] #ref(ss03.jpg,left,nolink) #br あたいですか?あたいの名前はイサベル。イサベル・ド・ブルボン。スペイン女王よ。 あたいの国を地球儀で見たことある? むかしはとってもとってもおおきかったの。「太陽の沈まない国」と呼ばれたこともあったわ。でも、四半世紀ほど前にコルシカ生まれのフランス軍人がヨーロッパでおおあばれしたおかげであたいの国は崩壊したわ。王室は亡命して、植民地はみんな独立したわ。僅かにのこっているのは、フィリピンとキューバ、それからプエルトリコくらいかしら。 そのあとなんやかんやあってスペインは王政復古したのだけれど、数年前、あたいの父上が死去したときにまたおおもめ。あたいの王位継承を主張して摂政になった母上と、あたいの王位継承を認めず僭称者になった叔父上がおおげんか。叔父上は地主と坊主に担がれて、ナバラとカタロニアの農民たちを率いて挙兵したわ。それでいまに至るってわけ。 *カルリスタ戦争の結果 [#nf5c9a0b] #ref(ss04.jpg,left,nolink) #br あたしの名前はイサベル。イサベル・ド・ブルボン。スペイン女王よ。 内戦は叔父上の勝利におわったわ。叔父上のカルロスは主の1838年、スペインの首府トレド州に入城して、あたしの母上を亡命に追い込み、スペインに専制をしいたの。政庁にはカルリスタ旗が高らかに掲げられたわ。あたしは万事休すだったけど、カルロス叔父はあたしを殺さず、まだ子供だからってことで、廃位もせず、叔父上が摂政になることと、叔父上の息子とあたしが政略結婚をすることで妥協したわ。自由主義憲法に定められた継承法も変更せず、カルリスタの子孫を王位継承者にすることで、国内を安定させたってわけ。 カルロス叔父は専制政府を地主と坊主で構成して、プエルトリコ州の砂糖輸出と、アストリアス州の金山採掘で黒字をつくり、その余剰財政で軍隊を近代化したわ。参謀本部を設置しながら、弾薬をイギリスやフランスから購入して、海軍を整備し、遠征の準備をととのえていた。あたしは聞いたの。「おじさま、なにやら軍隊をつよくしているようですが、なにかつかう予定はあるのですか?」って。そしたらカルロス叔父はにっこり笑って、「黒んぼたちを征服しにいくんですよ」って答えたわ。 *アフリカ遠征 [#qc7b0108] #ref(ss05.jpg,left,nolink) #br わたしの名前はイサベル。イサベル・ド・ブルボン。スペイン女王よ。摂政であるカルロス叔父、それから従兄弟である王配とともに、今日も元気よくスペインを統治していくわ。 スペインがかつて所有していた新大陸の広漠とした植民地をすべて失って、半世紀がたとうとしていたわ。カルロス叔父はこれを埋め合わせるために旧大陸のアフリカを征服しようと考えていた。アフリカには金、ゴム、そして多数の採掘資源と黒人奴隷があった。主の1839年にダホメ王国とアシャンティ王国を征服した。主の1842年にはオヨ王国を征服し、主の1844年にはベニン王国を征服した。主の1848年には内陸部に軍隊をすすめて、ボルグ王国とソコト王国を打ちのめし、ボルグを併合してソコトの西半分を割譲させた。こうしてスペインはナイジェリア地方に広大な植民地を手に入れ、そこから供給される原材料と労働力をつかってイベリア半島の近代化をすすめた。 主の1849年にははじめてイベリア半島で鉄道が敷設されたわ。国内最大手の主要港であるセビリアがある西アンダルシア州と首府トレド州を結ぶ鉄道で、この新技術はスペインの経済をより強靭にしてくれる。トレド州には行政府と大学が立ち並び、工場からは煙がもくもくとあがって、資本家たちも大喜び。 *女王の成人式と王位継承者の誕生 [#x508dbdf] #ref(ss06.jpg,left,nolink) #br ときはすこし遡って主の1847年、わたし、イサベル・ド・ブルボンは元服しました。ついた特性はCompliantで、邦訳すると「素直な」「ひとの言いなりになる」という意味。カルロス叔父の操り人形として育ったから、きちんとした自我が確立しなかったのだと思う。 スペインの王室は、アフリカの征服とイベリアの近代化をすすめる傍ら、隣国ポルトガルでおきた騒擾に対応しなければならなくなりました。1849年にポルトガルの急進派が反乱をおこし、ポルトガル王室がスペイン王室を頼ってきたのです。私たちはポルトガルの保護国化を条件にして派兵を決意しました。ポルトガルの反乱軍は打ち砕かれ、私たちはポルトガルを保護国としました。 主の1854年には王配と私との間に待望の男子が生まれました。私たちは彼をアルフォンソと名づけました。彼は地主で伝統主義者として育っていくことになります。主の1855年3月10日、カルロス叔父が亡くなりました。そして数年後には王配までがチフスの流行で亡くなり、私は幼いアルフォンソを抱いて、独り立ちしなければならなくなりました。